今米国では400余名の米海軍空母ロナルド・レーガンの元兵士が、東電と原子炉メーカーを相手どる訴訟を起こそうとしている。今年3月には連邦地裁に訴えを却下され、訴訟準備といってもすでにこの5年間も紆余曲折を経ている。彼らが3月13日に女川原発近くに停泊し、人道ミッション“ Operation TOMODACHI ”を遂行していたことは証言が取れている。すなはち、彼らは福島原発由来の放射性プルームの真っ只中で艦上ヘリの荷を積み降ろし、発着を誘導していた。放射能対策を取らぬまま無自覚に初期被ばくのインパクトを受けた。ガンや放射線被ばく症状を訴える402名のロナルド・レーガン元乗組員が、治療のための基金設立と情報操作の責任を追求している。
この悲劇的な逸話は、皮肉にも1954年太平洋・ビキニ環礁における米軍の<事故>により、日本の漁船が核実験の被害者となった出来事を想起させる。核実験<キャスル・ブラボー>作戦では、危険水域を指定したにもかかわらず爆破威力を低く見積もったことで、爆発に伴う放射性物質が安全水域にまで拡散した。23名が乗るマグロ漁船第五福竜丸が<死の灰>に覆われた。漁船の通信員は6ヶ月後急性被爆症状で死亡した。さらにその後も(1954年)同海域で、のべ900隻余りの日本漁船が操業中に被ばくしていた。
折しも日米両政府が、原子力発電の技術輸出交渉をしている最中のことであった。広島と長崎、2つの原爆の惨禍を知る国民に原子力の利用を受け入れさせるための<平和のための原子力>キャンペーンが始まっていた。福竜丸被ばく事件は最悪のタイミングだったのだ。外交裏取引で、被害者には米国政府から数億円の慰謝料と漁協経由での損害補償がなされ、23名の沈黙は当面保たれが、その他900艘1万人近くの漁師の健康は闇の中に葬られた。そして今日、被ばくの後遺症に耐えてきた漁船の乗組員45名が、日本政府の怠慢と情報隠匿の責任を追求する訴訟に踏み切っている(一審敗訴)。65年後の今、彼らの健康と被ばくとの関連調査が行われている。
核エネルギーの操作を始めた20世紀初頭の科学者は、この新たなエネルギーの開発と利用に熱中しながら、放射線の人体影響に関しては注意深く隠し、否認し、危険性を低く見積もり、証拠は隠滅した。ところが広島、長崎においては、爆発のひと月後には組織的に、大規模な人体影響観察が行われ、その医学的知見は米国陸軍の機密ファイルに閉じられ、未だに全容は明らかにされていない。
米国の核実験が繰り返される中、兵士たちは生体実験の対象にさえなった。名付けて<アトミック・ソルジャー>。その数25万人。また、核実験場のネバダ砂漠やマーシャル諸島近辺の住民も被ばくを避けられなかった。彼ら<風下住民>は放射性物質が漂う<風下>で暮らしていた。彼らの苦痛や疾病が当局によって認知されるのに40年も要した。1988年、退役軍人や住民の訴えを無視できなくなったアメリカ政府は、被ばく環境と病の確率を認める。18種のガンと補償の関係チャートを作成し、因果関係に触れないまでも相関性は受け入れた。因果関係と補償を求めるAtomic Veteranの運動はいまなお続いている。
2018年9月6日、福島県民健康調査検討委員会が開かれた。6月末までに18歳以下の県民の甲状腺検査で悪性と見なされた人は202人、手術を受けて甲状腺ガンと確定した人は164人と発表された。東京電力も政府も「被ばくとの関係は考えにくい」と因果関係を認めない。発病した子どもを持つ家族はしばしば孤立し、子ども自身が差別されるという報告もなされている。
被ばくするとはどういうことなのか。私たちの想像力は希薄と言わざるをえない。重複するガン、脱毛症、白血球の減少、流産、先天性奇形、、放射線被ばくの危険性は避けられない。原子の属性であり、その危険を回避するには放射線源から遠ざかることだけだ。この1世紀にわたる被ばく者の数を、否認と虚偽の数々を想像してみよう。私たちは科学的知見の意図的分散化と大量な情報の断片化の前で、判定する意思を削がれているのではないだろうか。このドキュメントの幅広い調査は、被ばくの事件、事実とその社会的政治的背景を描き、被ばくを隠蔽するメカニズムの由来を探る。被ばくの科学を絵解きし、労働被ばく、広島・長崎の被ばく者、ロナルド・レーガンの兵士、ビキニの漁船員たちの自覚的な言葉を紡いでゆく。その言葉の群れは、軍、国家の権力に向けた、原子力産業の傲慢に向ける犠牲者の意識の覚醒として記録される。